鈴木 太郎のアメリカ便り No-11


シボレー・コルベット、最初の50年 − その2

SCCJの皆さん、こんにちは。前回に続いてコルベットの歴史をお話します。

第3世代 ‐ 1968年から1982年まで
15年間続いた第3世代は、歴代コルベットのうち基本デザインの寿命が一番長かったモデルとして、また自動車をめぐる環境が大きく変わるという前代未聞の時代を生き延びたという点でもユニークな存在です。

1968年型として発売された新型モデルは先代スティングレイのフレーム、足回り、パワートレインなどをそのまま流用しながら全く新しいデザインのボディーをのせた車でした。デザインは数年前のコンセプトカーMako Shark IIのテーマを受け継いでおり、抑揚が強く中ほどを絞ったコークボトルのあだ名で呼ばれた形状を特徴としていましたが、そう言われなければ全く印象の違う先代スティングレイと同じシャシーを使った車とは分かりません。

ボディーは先代と同じくクーペとコンバーチブルの2つのスタイルがあり、クーペは垂直に立つ脱着可能なリアウインドウガラスを特徴としていました。屋根はTバールーフと呼ばれ車の中心を通るバーを残して左右の2枚のパネルが取り外せる構造で、この形式は後のフェアレディーZやシボレーカマロなどにも採用されています。もともとオリジナルのポルシェ・タルガのように頭上の屋根全部が一体として取りはずせる構造を考えたようですが、剛性の確保が難しいことから窮余の策として考案されたと伝えられています。

この年からオートマティックトランスミッションは2速型パワーグライドに変わって3速のハイドラマティックとなり効率と性能の向上に寄与しています。

不思議なことに、スティングレイという呼び名は新型に切り替わった68年型で消えたのですが69年にまた復活、しかし綴りが旧型のSting Rayの二つの単語からStingrayとひとつになりました。スティングレイとは魚のエイの一種ですが、辞書によればどちらの綴りでも正しいことになっています。


1969年から連邦の法律による自動車の排気ガスエミッション、安全性、欠陥車リコールの義務などの規制が発効し、技術者たちに新しいチャレンジを課することとなりました。同時に60年代なかばの馬力競争の結果生まれた高性能車に対する保険料が急上昇し、この状況に対応してGMは全車91オクタン無鉛ガソリンが使えること、またエンジンの公称馬力をそれまでのSAE方式からDIN方式に近いSAE Net方式の表示に切り替えるとの方針を打ち出しました。それまでは高出力が売り物だったので、メーカーは皆馬力の数字が多く出るSAE方式の測定法(エアクリーナー、マフラー、補機類など馬力を食う装備を全部はずせる)を採用していました。これが急遽180度方向転換することになったのです。また同じ理由で1964年のポンティアックGTOが発火点となったいわゆるマッスルカー(中型セダンのボディーに大型車用のエンジンを積んだもの、手ごろな価格で高性能のため文字通り一世を風靡)も突然の終焉を迎えることになります。


新しいSAE Net方式による馬力表示と旧方式の比較は、たとえばシボレーエンジンの場合次の通りです。
シボレーLT1エンジン5.7リッター (旧)330馬力  (新)275馬力
シボレーLS6エンジン7.4リッター (旧)425馬力  (新)325馬力

このLS6エンジンは技術的・財政的に排ガス規制に適合することが困難だったので72年にはオプションリストから姿を消しました。そして唯一生き延びた7.4リッター標準仕様は270馬力と惨めなほどの出力に成り下がり、1974年にはとうとうその標準仕様も生産打ち切りの運命となっています。

安全規制対策としては、たとえば時速5マイルで壁にぶつかっても自身に損傷のないエネルギー吸収式バンパーが73年にまず前部に、74年には前と後ろの両側に装着されました。コルベットのデザイナーとエンジニアが採用した方法はエネルギー吸収材を柔軟性のあるウレタンの表皮で包むというもので、ボディーカラーに塗られたソフトバンパーはそれまでの車の外観の概念を大きく変える効果をもたらしました。また、やはりこの年から側突の際乗員を守るドアビームが採用となりました。

このような状況の中、グッドイャータイヤがレース用ラジアルタイヤの開発試験とプロモーションを兼ねる目的でサポートしたプライベートエントリーの7リッターL88エンジン搭載のクーペ1台が1972年のルマン24時間に出走、総合15位、5リッター以上のクラス1位という成績を残しています。エンジンは580馬力まで出力が上げられており24時間の平均時速は100.6マイル、レース中の最高速度は212マイルに達したということです。たった5年前の67年に同じL88エンジン搭載車の最高速度が171マイルだったわけですが、なによりも空力やタイヤ技術など周辺技術の飛躍的な進歩の効果のあらわれでしょう。

高性能車にとって受難の時代は、さらに追い討ちをかけるように1973年の第一次石油危機をもたらしました。石油生産国が結成していたOPECが一方的に原油の値段を1バレル当り2ドル台から一気に14ドルへと値上げをしたのです。その結果一時的なガソリン不足をきたし、各地のガソリンスタンドに長い行列が出来たことは皆さんもご記憶と思います。アメリカのドライバーにとってさらに打撃的な事件は、エネルギー節約の目的でフリーウエイの最高速度が時速70マイルから全国一律55マイルに下げられたということです。この速度制限は政治的圧力もあって石油危機が終わったあともスピードが低い方が安全という名目で継続され、90年代になってようやく大多数の州で70マイルが復活することとなります。

悪いニュースはまだ続きます。屋根の無い車はロールオーバー時に危険という理由で政府の圧力がかかったのです。その結果1974年にはコルベットのカタログからコンバーチブルが消え、コルベットの場合はその後12年の間クーペのみがカタログに載ることになります。同じ頃排ガスと安全基準による技術的・財政的負担が大きすぎるため多くのヨーロッパ製スポーツカーも一番重要な市場であったアメリカから徐々に撤退、そのうちの多くが生産中止の憂き目をみることとなりスポーツカーファンにとっては10年以上のあいだ選択肢の限られた空白の時期をむかえます。皮肉なことにコンバーチブルを禁止する規制自体は掛け声だけで現実のものとはならなかったのですが。



1978年にはボディーにマイナーチェンジが与えられ、垂直だったリアウインドウがファストバックで大きく湾曲した成型ガラスとなりました。この年はコルベットが誕生してから25周年で、シルバーアニバーサリー・スペシャルとして濃淡の2色のシルバーに塗られたスペシャルモデルが、また同じ年のインディー500レースのペースカーとして選ばれた記念にインディーペースカー・レプリカも発売され、レプリカは当初300台の計画を大きく上回る6000台以上が生産される人気モデルとなりました。この年の350立方インチ(5.7リッター)L48エンジンは185馬力、排ガス規制がより厳しいカリフォルニア仕様は175馬力、またオプションのL82は220馬力でした。



翌1979年にはベース価格が1万ドルの壁をはじめて越え、10,220ドルとなりました。この頃から厳しくなった経済状態、さらに年を追って厳しくなる排ガスや安全規制への対応などを考えると値上げはやむを得ないと言えるかもしれません。ちなみにこの頃のインフレーションは最大で13.5%、金利のプライムレートは最大21%、また自動車ローンが24%という現在では信じられない高利でした。そのような条件の中、第3世代コルベットは15年のあいだに約54万3千台を売るという記録を残し、その点でも特筆すべき存在として歴史に残ることとなります。

この世代末期となる1980年にはあちこちに手を入れて車両全体で110キロ以上の重量が軽減されました。またエンジンに電子制御の燃料噴射をはじめて採用、より正確な燃料供給のコントロールによってさらに厳しくなる排ガス規制にそなえ、一方安全規制に適合するべくスピードメーターが最大85マイルまでの表示となるなど規制対応のための変更はまだまだ続きます。

1981年にはスロットルボディー・インジェクションと呼ばれた燃料噴射の改良により(マニフォルド上流に装備した1個のインジェクターを使う) 5.7リッターエンジンの出力が200馬力まで上がります。またオートマティックトランスミッションはそれまでの3速に代わって4速式が採用になりようやくこの分野でも近代化を果たしました。一方マニュアルトランスミッションの方は4速のままでこの年は10%にも満たない装着率、前回お話した60年代半ばと比べると自動:手動の比率が完全に逆転しています。



私自身はこの世代のコルベットには何台か違う車に乗る機会があったのですが、率直に言って必ずしも良い印象は残っていません。何故かと考えてみるとやはり品質感の不足が一番の理由だと思います。まず仕上げ、建て付け、材質などの見た目の印象が1万ドルもする車としてはちょっと不足で、乗って走り出すと今度はあちこちでガタガタ・ギシギシと音がするという具合です。硬いスプリングと相まってそれを受ける車体の剛性が足りないために、下回りからの入力がボディーをゆすり、ひねっているのが運転席で感じられるのです。

車がガタピシするのは普通の場合車体全体または局部的な剛性不足が大きな原因ですが、屋根を持たないコンバーチブルは当然不利です。私がこれまで乗った車のうちワースト2として記憶に残っているのは、80年代のマセラティ・ビトゥルボのコンバーチブル、それとプジョー205CTIです。そのあと初代のホンダシティー・カブリオレが続くでしょうか。これらの車はみなベースになった屋根つきのボディーから屋根を切り取って作られたので、もちろんいくらかの補強を加えているはずですが効果はとても十分とは言えず、その頃の車体構造解析技術がまだ開発途中だった事実を反映しています。第3世代コルベットも最悪の部類に属すると思いますが、これはむしろ1960年代初頭設計のシャシーをそのまま20年間もキャリーオーバーした事が責められるべきなのかもしれません。

これに比べて現代のコンバーチブルの良くできたものは技術の進歩が文字通り身をもって感じられ、私の記憶に残るベスト2はホンダS2000と現行のコルベット・コンバーチブルです。最近ちょっとだけ乗ったBMW・Z4とポルシェ・ボクスターも比較的スムーズな路面では剛性不足の兆候は感じられませんでした。

当時のコルベットの品質感の不足は雑誌などでも叩かれており、当然メーカー自身も分かっていました。対策としてGMはそれまでのミズーリ州セントルイスにあった工場に換えてケンタッキー州南部のボウリンググリーンに全く新しいコルベット専用の工場を建設し、1981年から稼動が始まり現在まで続いています。ここでは最新の設備を備えて塗装その他の見栄え品質は格段に向上したのですが、ガタピシ感の方は生産技術より設計技術の問題ですから一流のレベルに到達するのにはこれより2世代あとまで待たねばなりません。

今回はここまで。残る第4、第5世代は次回とさせていただきます。お元気でよい夏をお過ごしください。

(この項終わり)

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