鈴木 太郎のアメリカ便り No-21


豪州旧車事情

SCCJの皆さん、こんにちは。

いまこれを書いている12月半ばのデトロイト郊外は日中の気温が摂氏マイナス7度、この冬一番の寒気に覆われています。まだ冬は始まったばかりで、これがあと4ヶ月近く続くと思うといささか気が滅入ります。
現役スキーヤーである私にはこれまでこの寒さがさほど気にならず、きれいな雪景色が楽しめてドライビングにチャレンジを提供する冬の季節をむしろ歓迎してきたつもりですが、今年はすでに腰が引けているのがちょっと気がかりです。
そのようなわけで、折からのアメリカ自動車産業が直面する歴史的規模の苦境を背景にここは消極的になるべからずと自らを鼓舞しつつ、今回のアメリカ便りはいま夏の真っ最中であるオーストラリアに舞台を移したいと思います。
私とオーストラリアの縁は、娘がオーストラリア出身の人と結婚した2002年10月に始まります。彼のホームタウンであるメルボルンで行われた式に出席するため私たち夫婦は初めてこの国を訪れました。紅葉のミシガンを出て東京経由で到着したメルボルンは正反対の季節、一応知識があったとは言え春の花が咲き乱れているのを見るのはやはりちょっと不思議な体験でした。
このほかにも南半球独特の現象、例えばバスタブの排水口に流れこむ水が北半球とは逆の反時計方向に渦巻いたり、売りに出された不動産の記述に北向きの部屋と特別に謳っている(日当たりが良いという意味)のを見るにつけ、文字通り百聞は一見に然ずを実感したものです。
初めての訪問では時間にあまり余裕がなくメルボルンに数日滞在のあとシドニーへ飛んでここでも数日という慌しい日程だったのですが、その間に私の注意を引いたのが路上で見かける古い自動車の数の多さでした。大部分が1960−80年代の車でしたがクラシックカーと呼べるような特別のものではなく、また大切に保存されている様子もなく明らかに使いっぱなしと見える実用車なのです。
ひとつ例を挙げると、スズキ・マイティボーイという車を覚えておられるでしょうか。1980年代、まだ軽の規格が550ccの時代の車で、4人乗りのセルボを基とにしてボディ後部を荷台にした車両重量520kg、積載量200kgの超小型ピックアップトラックです。この車が発売された当時私はたまたま仕事のために日本に住んでいたのですが、「スズキのマー坊」という広告のコピーは記憶に残っています。
マイティーボーイを見つけたのはシドニー滞在中で、何と同じ日に2台違う車が駐車してあるところを目撃したのです。両方ともなかなかきれいな外観でしたが、たまたまカメラを持っておらず写真の記録がないのが残念です。
その後2度の訪問で合計7週間ほどオーストラリアに滞在する機会がありましたが、古い車の印象はますます強くなるばかりでした。
一体どうして古い車がこれほど多数生き残って、しかも明らかに通常の足として使われているのか、現地で何人かのひとに訊ねてみたのですが、彼らにとっては至極当たり前のことなのか要領の得られる答えをもらうことは出来ませんでした。したがって私の推測に過ぎないのですが、いくつかの理由を考えてみました。
まずこれらの都市における冬の気候がマイルドであること。シドニーはもちろんさらに南に位置するメルボルンでも雪は全く降らないようです。そのため車の車体に害を与える融雪剤を使うことはないと思われ、これが車体の耐久性に大きく寄与しているようです。
対照的なのは私の住むデトロイト地区で、冬季は降雪と路面凍結がしばしば起こるためデトロイト市のすぐそばにある岩塩の鉱脈から容易に手に入る塩を融雪剤として使っています。ご存知のように塩は車体に使われる鋼板にとって大敵です。私が初めてミシガンに来た40年数前のころはドアやフェンダーなどの外板が腐食して大きな穴が開いている車をよく見かけたものです。それでも当時の車はボディの下に頑丈なフレームを持っていたので走行に支障はなかったのですが。
さいわい今では鋼板の防錆加工技術が進歩し、鉄に替わる耐腐食性に優れた素材も使われるようになり、また路面から上がる塩や泥が流れ落ちて錆のもとを作りにくい車体設計技術が進歩してアメリカ車だけでなく日本や欧州からの車も派手に錆びている車を見ることはほとんどなくなりました。
話を元に戻して、オーストラリアで古い車が多数使われている第二の理由と考えられる点は、一般的に言って新車の価格が高いという事実です。これは輸入車において政府の国産車優遇政策の表れかその傾向が特に顕著です。一例として2008年型フォルクスワーゲン・ゴルフGTiを比べると、装備がかなり整った仕様の5ドア車は約4万5千AUドルです。これに比べてアメリカでは同等の仕様を持つ車が約2万5千USドル、現在のレートでオーストラリアドルに換算すると3万5千AUドルとなりその差はほとんど30%です。
もうひとつの理由は、これは純粋に私の想像に過ぎないのですが、この国はもともとイギリス人が創った国ですからイギリスの文化を基として他のヨーロッパ諸国や最近の傾向であるアジアからの移民が持ち込んだものが混ざり合って出来た文化で、古くからの倹約の精神とあわせてひとつのものを長く使う慣習が出来上がっているのではないかと思うのです。これは車に限らず例えば住宅についても同じことが言えるように見え、私の限られた観察によれば、古い町並みに建つ家の暖房設備などは昔からのものが今でも使われている例が結構多いとの印象を受けました。

前置きはこのくらいにして、主としてメルボルン郊外で撮った古い車の画像をいくつかお目にかけましょう。単に古いだけでなくアメリカでは観る機会のなかった車もあって、私にとっては懐かしいと同時にとても興味深い風景でした。

写真をクリックすると別ウィンドウで大きな写真(1024*768)が開きます。

Alfa Romeo Alfasud 1971年から89年にかけて作られたアルファ最初のFWD車。 エンジンは水平対抗4気筒1.2−1.7リッター。軽快なハンドリングの良さは 当時各国の自動車専門誌が絶賛した。車名のsud(南)が表すように 南部イタリア、ナポリ近郊の新工場で作られた。スタイリングはジュージアロの イタルデザインが、車両設計はアルファ・ジュリエッタ、フィアット124、128を 手がけたオーストリア人ルドルフ・ルシュカが担当した。写真の車は後期型でTiの エンブレムが示すとおり高性能版。
Austin Maxi アレック・イシゴニスの画期的な設計で1960年に発売されたミニの 基本構成を応用して、1969年から81年の間に作られた中型車で、Miniに対するMaxiと 名付けられた。写真で分かるように、横置きFWDのパッケージングはホイールベースを 極端に長くとってホイールハウスの車室への干渉をなくすことを可能にしている。 ゴムのスプリングと油圧で前後を連結したハイドロラスティック・サスペンション。 エンジンは直列4気筒1.5−1.8リッター。基本コンセプトは良かったが残念なことに 量産設計の煮詰めが不十分だったことと、この頃イギリス自動車産業界に蔓延した 製造品質低下が災いして製品としては失敗に終わった。
Ford Escort ヨーロッパフォードのエスコートは1968年から2000年まで続いた車名。 写真の車はマーク1と呼ばれて1968年から75年まで作られた第一世代。これは4ドアの ファミリーセダンだが、2ドアセダンはよりスポーティーな味付けがなされ、 ラリー仕様車はロジャー・クラーク、ハンヌ・ミッコラなどのドライビングで ヨーロッパ各地のイベントで活躍した。フォードはオーストラリアに工場を持つので この車は現地生産車と想像される。
Ford Falcon オリジナルのファルコンはアメリカフォードが1950年代末の不景気と 当時増えつつあった輸入車への対策として売り出したいわゆるコンパクトカーだった。 写真の車はアメリカの設計を基にオーストラリア・フォードが現地生産したもので、 時代は1960年代かと思われる。ファルコンは当時のアメリカ車の標準的な構成である フロントエンジン・リアドライブであったが、対照的に同じコンパクトカーでもGMが 作ったシボレー・コルベアは空冷水平対抗6気筒を後ろに載せた4輪独立の凝った設計であった。
Ford Ute Ute(ユート)とはユティリティーを縮めた呼び名だが、乗用車の後部ボディーを ピックアップトラックの荷台としたオーストラリア独特のボディースタイルを指す。 写真の車は現行ファルコンをベースとしている。なぜオーストラリアで人気を保っているのかは ちょっとしたミステリーだが、同形式の車はアメリカでも1960から70年代にかけてシボレーが エル・カミノ、フォードがランチェロと呼んで販売した。今でもロスアンジェルス近辺では 時々走っているのを見かける。

Honda S800 この車はメルボルン郊外のセント・キルダという海辺の町で何度も見かけた。 いつもトップダウンにして若い女性が乗っていたが、私用というよりも仕事のための移動に 使っているように見えた。ライセンスプレートのMY-800は彼女の個人所有であることを 指しているのだろう。

Holden Gemini 1973年にドイツで発売された第三世代のオペル・カデットを基本としており、 同じGMの傘下にあったいすずが日本国内用にいすずジェミニとして1974年から生産、それを オーストラリアに輸入してホールデン・ジェミニと呼んで販売したもの。写真の丸目を持つ車は オリジナルのデザイン。
Mazda Capella カペラは1970年の発売から78年までロータリーとピストンエンジンの二つの仕様が 並行して作られ、78年の第三世代以降ピストンエンジンのみとなった。写真の車は初代の 1500ccピストン車と思われる。路上駐車ではなくアパート専用のカーポートの同じ場所に いつも停められており、埃のつもった様子から見て長い間動いていないようだった。
Mazda Familia ファミリアシリーズのなかでは第4代目にあたる最後のRWD車で写真は 1979年にマイナーチェンジを受けて角目となった車。ところでオーストラリアと言えば マツダ・ロードペーサーという車をご記憶だろうか。マツダがボディーシェルを ホールデンから供給を受けて輸入し、ロータリーエンジンを載せて1975年に売り出したもので、 当事マツダ唯一の普通車だった。ボディーシェルの海外からのOEM供給というのは私の知る限り あとにも先にもほかに例がない。
Mazda 121、MX-3 手前の赤い車は1990年代初頭マツダ121の名称でヨーロッパに輸出されたが、 オーストラリアにも入っていたとは知らなかった。日本名はオートザム・レビュー。 向こう側の黒いクーペは同時期に発売されたユーノス・プレッソで、海外ではマツダMX3呼ばれた。
MGB GT 1962年秋に発売されたロードスターから3年遅れて65年秋にクローズドボディとハッチバックを 持つGTが導入された。ぐんと良くなった対候性とセキュリティー、それに拡大された荷室容量のために GTを好む顧客もかなり居て、1980年の生産中止までに約50万台作られたMGBのうち4分の1をGTが占めたという。 写真の車は74年以降アメリカの安全基準によって義務付けられた無骨なデザインの衝撃吸収バンパーを装備したいわゆるラバー・バンパー型。衝撃を受ける部分の高さは基準で決められ、MGのエンジニアはサスペンションの調整で車高を上げて適合させるという安易な方法をとったのだが、その結果オリジナルデザインのエレガントなたたずまいはすっかり損なわれてしまった。
Nissan S-Cargo ご存知1980年代終盤にニッサンが続けざまに発売したマーチベースの限定生産車のうちの一台。 エスカルゴのほかBe-1, パオ、フィガロの三車があった。写真の車は(恐らく)ニッサン営業部が 意図した通り商業用に使われている。

Renault Fuego フエゴは1980年代前半にルノーが生産したルノー18というごく平凡なノッチバックの 乗用車をベースにしたスタイリッシュな4人乗りクーペである。1980年から85年まで製造され、 アメリカにも輸入された。エンジンは1.4から2.2リッター、縦置き直4のFWD。

Toyota Corolla (1) 1970年代から77年までに作られた第2世代のカローラ。シドニーでは 初代カローラも見かけたのたが、写真でお見せできずに残念。

Toyota Corolla (2) これははじめてFWDとなった第5代目、1983−1987年の生産。 姉妹車スプリンターはトヨタとGMの合弁によってカリフォルニアに設立された New_United_Motor_Manufacturing Inc. (NUMMI)が作る最初の車となり、 シボレー・ノヴァと呼ばれ全米のシボレーディーラーを通じて販売された。 発売当時ロード&トラック誌に載ったロードテスト記事の見出しに ”Chevrolet_Nova,_it’s_roomy,_zoomy,_and_comes_from_NUMMI” とあって大笑いしたのを思い出す。roomy(余裕ある室内)、zoomy(きびきびした走りっぷり)、 NUMMI(ヌーミと発音)と語尾が韻を踏む三つの言葉をうまく重ねてある。


それでは今回はこれで。来年もどうぞよろしくお願いします。
(鈴木太郎記、2008年12月16日)

アメリカ便り・トップへ