鈴木 太郎のアメリカ便り No-19


Motor Sport雑感

SCCJの皆さん、こんにちは。暑い夏をどのように過ごされたでしょうか。

Motor Sportと呼ばれるイギリスの雑誌があります。創刊が1924年といいますから日本では大正末期、いかにもイギリスらしいモータースポーツ史の長さを象徴しています。ある時点まではモータースポーツに関する最新ニュースの情報源としての役割を担っていましたが、ニュースメディアがテレビ中継とインターネットの時代に移った現代では主に古い時代のレースの話題に焦点を当てるよう編集方針を変え、しっかりと読者を確保しています。

表紙はブリティッシュ・レーシング・グリーンを基調としたデザインですが、数年前に何を考えたか緑が赤に変わりました。なじみの書店の棚に見つからず、店員にもう売り切れたのかと尋ねたところ、そこにありますよと指されて初めて分かる始末でした。まさかレース進行中にレッドフラッグが振られたとのジョークではなかったと思いますが、読者の評判はやはり良くなかったらしく1年後にグリーンにもどされたという出来事がありました。

1) Lunch with Peter Warr
現在私が毎号楽しみにしている記事のなかに「Lunch with ….」と題したシリーズ物があります。Lunch withのあとにインタビューされる人の名前が入るのですが、現役を引退したモータースポーツ関係者、例えばドライバーやチームオーナー、チームマネージャー、メカニック、デザインエンジニア、レースオーガナイザーなどといった人たちが登場し、現役当時には公に語られなかったと思われるいろいろな昔話が披露されるものです。昼食を摂りながらのインタビューという設定なのでメニューから選んだ料理の名と写真が載っており、その人の好みやライフスタイルが偲ばれて記事に独特の深みを与えています。

つい最近の号に載ったのがPeter Warrのインタビューでした。ピーター・ウォァ、この名前を懐かしく思い出す方は沢山おられると思います。私と同世代の方々には1963年の第一回日本グランプリにドライバーとしてロータス 23を持ち込み他車を寄せ付けない速さで優勝した人として、また若い方々はリント、フィッティパルディ、アンドレッティのチャンピオンを生み出したTeam Lotus第2黄金期のチームマネージャーとしての記憶が蘇ってくるのではないでしょうか。

記事の中で日本グランプリ参戦については一言触れただけで、開催場所はMount Fujiと書かれています。その誤りを指摘すると同時に自分の懐かしい気持ちを表現したく、先日モータースポーツ誌編集局に投書をしました。その中にあの日鈴鹿で見たロータス23の速さと美しさに強い感銘を受けたのは私ひとりに止まらず、後に日本の経済力と貿易事情が好転してからロータス23のオーナーになった幸運な人たちが何人も居る、と書き加えました。

1963年に来日したときはすでにロータス社の社員でした。入社は58年で20歳のときと言いますから今年70歳になり、リタイアしてからは南フランスに住んでいます。インタビューも南フランスで行われ、ちなみに彼が昼食に選んだのはフォアグラとホタテ貝の料理、それに地元ボルドー産のワインでした。

インタビューの中で披露した面白いエピソードのひとつが、60年代終わりにチーム・ロータスのドライバーだったヨッヘン・リントは車に酔いやすかったという事実です。もちろんF1ドライバーの中では他に例がないそうです。リントは1970年イタリアグランプリ練習中の事故で死亡したのですが、その原因を含む当時のチーム関係者だけが知っていたいろいろな事情がここで語られています。このシーズン彼は事故に遭うまでに十分なポイントの貯金が出来ていたので、最終的に総合1位となり、死後チャンピオンシップを獲得した唯一のドライバーとなりました。

もうひとつ意外な話は、ロータスに在籍したあと1992年にウィリアムスF1に乗ってチャンピオンとなったナイジェル・マンセルに係わるもので、高速コーナーでは抜群のバランス感覚を持っているのにレース中に頭を使わず、つまらない間違いを犯していくつものレースを失った、また自意識が強くチャンピオンになる前から自分をチャンピオンの地位において考えていた、とこき下ろしていることです。マンセルは私の理解では当時のイギリスで英雄的な扱いを受けており、F1優勝回数も歴代第4位の優秀なドライバーと記憶していたのでこれはちょっと驚きました。

彼はチャンピオンシップシーズンの翌年1993年にF1を一旦引退して、アメリカのCARTワールドシリーズに移りその年のCARTチャンピオンとなるのですが、ウォアは彼の高速コーナーでの強味がオーバルトラックで行われるCARTレースとの相性が良かったのだろう、と結論付けています。

2) Denis Jenkinson and 1955 Mille Miglia
有名なモータージャーナリスト、Jenksことデニス・ジェンキンソンはモータースポーツ誌契約のレースリポーターとして初期のポルシェ356を駆ってヨーロッパ各地を走り回り、レースが終わったあとホテルの部屋でまとめた手書きの原稿を郵便で編集局に送るという生活を長年続けました。彼の個人的な体験を中心に書かれた「Porsche Past & Present」は私の自動車専門書コレクションのきっかけとなり、その後出た改訂版の「A Passion for Porsches」と共に私の愛読書として本棚におさまっています。

この人は学校ではエンジニアリングを学び、ジャーナリストになる前はプロの2輪ライダーとしてレースを経験、その後サイドカーのパッセンジャーとして世界選手権を取った経歴も持っています。しかし彼を一挙に有名にしたのはスターリング・モスのナビゲーターとしてメルセデス300SLRで参戦した1995年ミレミリア優勝の実績です。このレースでモスはブレシア・ローマ・ブレシアのループ全行程1000マイルの公道コースを平均時速98マイルの新記録で走破しました。

もちろんジェンクスの本業であるモータースポーツ誌の仕事も忘れず、レースの後2日間ホテルの部屋にこもって、レース全般の報告と毎月のコラムの2点の記事をまとめたあとで書き記したと言われるナビゲーターの視点からのリポートはこの種の記事の傑作とされています。彼がモスとコンビを組むまでの経過や、過去に勝った例がない非イタリー人ドライバーが勝つための戦略構築、レース前の周到な準備などを経てレース中のさまざまなハプニングの記述にいたるレポートにはジェンクスのジャーナリストとしての実力と共に彼のモーターレースへの理解と情熱の深さがよく表れていると思います。優勝50周年にあたる2005年にはモータースポーツ誌からこのレースリポートの複製版付き記念号が出版されました。 そのなかのモスとのインタビューにあるのですが、モスはレース後ブレシアでの表彰式に出席し、そのあとガールフレンドと一緒に夜を徹してメルセデス220セダンをドライブして翌日昼にはシュトゥットガルトのダイムラーベンツ本社で重役たちと昼食、さらにドライブを続けて夜ケルンに着いてようやくホテルにチェックインしたということです。この間40時間一睡もせずに食事等のブレークのほかは高速ドライビングを続けたことになりますが、この超人的なスタミナの秘訣が同じメルセデスのチームメイト、フアン・マニュエル・ファンジオが分けてくれた「マジックピル」だったというのです。これはどうやらスタミナ増強剤の一種らしいのですが、このエピソードを読んで2つの思いが浮かびました。

まず同じチームに属するとは言え、ライバル関係にもあるチームメートの間柄がこの例のように大らかでフレンドリーであることが、この時代ではそれほど珍しくなかったのだろう、という点です。振り返って現代のプロフェッショナルモータースポーツの環境とメンタリティーを考えると、昨年のアロンゾとハミルトンのピットレーンでの「事件*」が示したようにこの時のファンジオの行為は文字通り遠い昔のこととなってしまったのではないかと思うのです。(*昨年のアロンゾ・ハミルトン事件:ハンガリーグランプリの公式練習中Q3時間切れ直前に両者が同時にピットインしたが、アロンゾのピットアウトが遅かったため後ろで待っていたハミルトンは彼のポールポジションにチャレンジする最後の機会を失った。レーススチュワードはアロンゾと彼のクルーによる故意の妨害とみなしスタート位置を5位下げるペナルティーを科した。)

ふたつめは、仮りにこれが現代で、マジックピルを摂ったという事実が発覚していたらドーピング違反としてモスの優勝は剥奪されたかもしれない、というちょっと悲しい想像です。どうやらツール・ド・フランスの実況を見すぎたようです。

このレースでもうひとつジェントルマン的行為の例がありました。ジェンクスはレースに先立ち長い紙テープに詳細なペースノートを書きこみ次々に巻き取りながら読む道具を作って、地元出身ドライバー達のアドバンテージを相殺する有効な武器としたのですが、これは彼ら自身の考案ではなく、同じメルセデスチームからストックの300SLガルウィングで出場し、総合5位でフィニッシュしたジョン・フィッチのアイディアを彼の承諾を得て借り受け使ったということです。

3) You were there, I was there
(写真をクリックすると別画面に拡大写真が表示されます。)

これもシリーズで毎号載るのですが、「You were there」というページがあります。これは読者が投稿する昔のレースの写真を掲載するページで、いかにも素人っぽく解像度が悪かったりフォーカスがちょっとずれた写真が大部分なのですが、皆それなりに当時の雰囲気が良く伝わってきてなかなか楽しいものです。

You were there とくればYes, I was there! と反射的に応えたくなり、話を飛躍させて私自身のグランプリレース観戦の思い出に触れたいと思います。

1964年にアメリカへ来た私は、まず1965年に友人に誘われてワトキンスグレンで開催されたUSグランプリを観ました。この年は1.5リッターフォーミューラ最後の年で、ホンダV12エンジンの音を聞いたのはこのレースが最初で最後でした。このときは買ったばかりのトライアンフTR4でのはじめての長距離ドライブで印象深く、レースの朝泊まったモテルから台地の上にあるサーキットまで曲がりくねった田舎道をとばした爽快感はいまでも思い出します。

レースのあとは同行した妻と一緒にマサチューセッツ州ケープ・コッドまで足を延ばし、秋のニューイングランドを楽しみました。しかし良いことばかりではなく、この旅行中に新車トライアンフのカムシャフトが焼入れ不足の不良品であることが発覚、途中何度も止まってはタペットクリアランスを詰めながらだましだまし旅を続けたものでした。

翌年は新しく設定された3リッターフォーミューラの年で、もう一度USグランプリを観戦。その後娘が生まれてからしばらく長距離ドライブを諦め、1969年から3年続けて、そのあと76年にもう一度カナダグランプリを観戦しました。

カナダグランプリの歴史は1961年に始まり、現在まで途切れることなく続いています。今ではモントリオール市中、セントローレンス川にあるノートルダム島に作られたサーキットが会場となっていますが、私が行った1970年頃にはトロントの東方60キロのところにあるモスポート・パーク(Mosport Park)で行われていました。この間に一回だけ、1970年にモントリオール北方のモン・トレンブラン(Mt. Tremblant)と呼ばれるスキーリゾートのある山の麓のサーキットに場所を移して、私は幸運にもその場に居合わせる機会を得ました。

モスポートのロードコースは一周3.9キロで平地に作られていますが、それでもそこそこの起伏があって、特に後半が下り坂のフロントストレートから入っていく第一コーナーはかなりスリリングです。

当時のドライバーと車名を思い出していただくために1969年モスポートのレースの結果のうち上位6位までを下に挙げます。このほかここに含まれない著名な車にはフェラーリ、BRM、マクラーレンなどがありました。このレースではブラバムBT-33が好調で、1位のジャッキー・イクスはポールポジションからのスタートでした。

1. Jacky Ickx (Brabham-Ford)
2. Jack Brabham (Brabham-Ford)
3. Jochen Rindt (Lotus-Ford)
4. Jean-Pierre Beltoise (Matra-Ford)
5. Johnny Servoz-Gavin (Matra-Ford)
6. Pete Lovely (Lotus-Ford)



のんびりしたレース前日公式練習中の
チームロータスのピット。#2はヨッヘン・リント
(後ろ向きの黒ジャケット)、
#1は前年チャンピオンのグラハム・ヒル。
スタート直後。リントがグリッド2列目から
うまく飛び出す。
その後ろに見えるのは(左から)イクス、
ブラバム、スチュアート、ヒル、ベルトワーズ、
ハルム、ロドリゲス、シフェール。


下りの第一コーナーを過ぎるとすぐ上りになる。
この日のウィナー、ジャッキー・イクス
(ブラバム‐フォード)。

このシーズンはマトラ・フォードに乗るジャッキー・スチュアートがカナダグランプリの前にすでに初のチャンピオンシップ獲得を決めており、チームオーナーのケン・ティレルと組んだスチュアート黄金時代が始まります。彼はこのあと71、73年にもチャンピオンとなりました。

技術面での69年シーズンの特色は、いくつかのチームが4輪駆動車を実験的に登場させたことです。ロータス、マクラーレン、それからたしかマトラも走らせたと思います。4駆と言うと目の色が変わる私は特に注目していたのですが、結果は4駆システムの信頼性が低くスピードも上がらずで失敗に終わり、この年限りで消滅しました。構造の複雑さと重量増加の基本的欠点のほか、タイヤ技術が進んで駆動力を伝えるのに2輪で十分足りたのに加え、開発資金の不足という障害を克服できなかったのだろうと想像します。その後現在に至るまで4駆のF1レーサーが現れていない事実を考えると、F1レースでは本質的にその特長が生かし難いと考るべきかもしれません。

1960年代末期から70年代初期は、空気力学的に発生するダウンフォースをタイヤに与えてコーナリングスピードを上げる技術の試行錯誤が始まった時期ですが、この頃はウィングもまだ控え目でグラウンドエフェクトはまだ登場しておらず、外観はクラシカルな葉巻型ボディーのテーマを継承していました。私の意見では68、69年に走った軽やかでエレガントな印象のマクラーレンM7Aがこの時期で一番美しい車だったと思っています。

翌1970年のレースはモン・トレンブランで行われました。このサーキットは山の斜面を切り開いて作られているので自然の高低差があり、一周4.3キロです。70年のグランプリが開かれたのは9月下旬でしたが、紅葉が景観の良さをさらに引き立てていました。唯一の問題はアクセスの道路がひとつしかなく、レースが終わったあと最悪の混雑を体験しました。いまではもうひとつの道が造られているようです。レースの結果は次の通りです。

1. Jacky Ickx (Ferrari)
2. Clay Regazzoni (Ferrari)
3. Chris Amon (March-Ford)
4. Pedro Rodriguez (BRM)
5. John Surtees (Surtees-Ford)
6. Peter Gethin (McLaren-Ford)



紅葉が映える秋晴れの
モン・トレンブランサーキット。
先頭からBRM,マトラ、フェラーリ。

このレースでデビューしたティレル001。
ピットの女性(黒い帽子)はミセス・スチュアートか?
ファッションはこの時代の典型。


この年ロータスは傑作と言われたタイプ49の後継としてタイプ72を導入しましたが、このレースではグラハム・ヒルが乗ってDNF。また全く新しいマーチとサーティーズが初登場してこのレースでは両車ともポイントを獲得。マトラは独自に開発したV12エンジンを導入しました。

シーズン終わり近くにはケン・ティレルが開発したティレル001が初登場し、一方ブラバムチームのボス、ジャック・ブラバムはこれが現役最後のシーズンとなりました。代わって78年にチャンピオンになるマリオ・アンドレッティがデビューしました。

当時最もポピュラーで最も成功したエンジンはフォード・コスワースDFVですが、このV8エンジンの排気音は意外と野太い低音です。これに比べ新しいマトラV12は何オクターブも違うような甲高い音で実に印象的でした。現代のF1エンジンの19,000回転に比べると、せいぜい10,000程度だったろうと思いますが、3リッターNAエンジンの音圧は相当なもので、コース脇に立つと耳をくすぐられる感じがしたのをよく覚えています。

1971年の会場はまたモスポートに戻りましたが、ここでも新しい名前がいくつも登場しています。レース結果は次の通りです。

1. Jacky Stewart (Tyrrell-Ford)
2. Ronnie Peterson (March-Ford)
3. Mark Donohue (McLaren-Ford)
4. Denny Hulme (McLaren-Ford)
5. Reine Wisell (Lotus-Ford)
6. Francois Cevert (Tyrrell-Ford)



この旅で私たちが乗ったオペルGT。
この年デビューのサーティーズ‐フォード。
ドライバーは64年チャンピオンの
ジョン・サーティーズ自身。


ティレル‐フォードのジャッキー・スチュアート。
すぐ右に立つ長身の人がチームオーナーの
ケン・ティレル。
BRMのガレージ。
車の脇に立つドライバーは地元出身の
ジョージ・イートン、
トロントのデパート創業者の御曹司である。


このレースではスウェーデン人のペーターソンとウィセルが上位に入っていますが、スカンジナビア出身のドライバーが目立ち始めたのは、50年代から60年代前半に活躍したジョー・ボニエを例外とするとこの頃からではなかったかと思います。ロニー・ペーターソンは上記のピーター・ウォアも褒めていますが近代のハッキネン、ライコネンに匹敵するトップクラスの才能と技量を持っていたと思います。惜しいことに1978年のイタリアグランプリのレース中の事故で死亡しました。

3位に入ったマーク・ドナヒューはアメリカ人のスポーツカードライバーで、有能なエンジニアでもありました。ロジャー・ペンスキーの車でインディ500に勝った戦績もあり後にペンスキーのF1チームに入りますが、この人も1975年オーストリアグランプリの練習中に事故死しています。この年は後にチャンピオンとなるエマーソン・フィティパルディ(72年)がデビューしています。

この年私はピットパスを入手したので、ピットの活動を近くから見ることが出来ました。この頃導入されたスリックタイアを間近に見たのも1971年が初めてだったと思います。実際に触ってみたトレッドの感触は消しゴムと同じでした。

その後数年のブランクを経て1976年に再びモスポートを訪れました。この年の結果は次の通りです。

1. James Hunt (McLaren-Ford)
2. Patrick Depallier (Tyrrell-Ford)
3. Mario Andretti (Lotus-Ford)
4. Jody Scheckter (Tyrrell-Ford)
5. Jochen Mass (McLaren-Ford)
6. Clay Regazzoni (Ferrari)



ティレルP34、
これは4位に入ったジョディー・シェクターの車。
ジャック・ラフィットが乗ったリジェ‐マトラ。


ピット前にいるのがフェラーリの
クレィ・レガゾーニ、ピットレーンにいるのが
マーチのロニー・ペーターソン。
ガレージの中のシャドウ。
クルーのジャケットと車のエアダクトとの
カラーコーディネーションに注目。
ハードウェア全体の仕上げもとても美しい。

#22ジャッキー・イクス
(エンサイン‐フォード)、
#11ジェームス・ハント
(マクラーレン‐フォード、この日優勝)、
#34ハンス・ヨアヒム・シュトゥック
(マーチ‐フォード)。
半分隠れているが左にブラバム‐アルファが2台、
その前の2台はシャドウ‐フォードと思われる。

この頃になるとエントリーリストには上記のほか前年チャンピオンのニキ・ラウダを筆頭にカルロス・ロイテマン、カルロス・パーチェ、ジョン・ワトソン、アラン・ジョーンズ、ジャンピエール・ジャリエ、アンリ・ペスカロロ、ジャック・ラフィット、ピーター・レヴソンなど数々の懐かしい名前が見えます。

今回はここで終わりとします。次回もよろしくお願いします。

(鈴木太郎記 2008年8月24 日)

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